IDMP/SPOR規制 対応ガイド|製薬企業の「MDM(マスターデータ管理)」構築マニュアル
IDMP/SPOR規制 対応ガイドと製薬企業向けMDM構築戦略
グローバルに事業を展開する製薬企業にとって、医薬品識別に関する国際標準規格であるIDMP(Identification of Medicinal Products)への対応は、単なる規制遵守を超えた、データ戦略の根幹を揺るがす喫緊の課題です。欧州医薬品庁(EMA)が推進するSPOR(Substances, Products, Organisations, and Referentials)データサービスへの統合は、治験から市販後までの医薬品ライフサイクル全体におけるデータの一貫性と正確性を保証するために必須となります。
しかし、多くの企業では、部門やシステムごとに乱立したレガシーな医薬品マスターデータが、この国際標準への対応を阻んでいます。本記事は、IDMP/SPOR規制に対応するために、製薬企業がどのようにマスターデータ管理(MDM)戦略を構築し、データガバナンスを確立すべきか、具体的な手順と解決策をプロフェッショナルの視点から徹底解説します。この変革を乗り越え、データ資産を競争優位性に転換するための実用的なガイドとしてご活用ください。
1. IDMP/SPOR対応の核:MDMによるデータ統合
IDMP規制対応の最も重要な結論は、社内のサイロ化されたデータを、EMAが提供するSPORマスターデータに整合させるための「マスターデータ管理(MDM)」戦略を確立することにあります。MDMは、企業全体で製品、物質、組織などの重要なデータを単一の信頼できる情報源(Single Source of Truth)として統合し、維持する仕組みです。このアプローチにより、IDMPが要求するISO規格(ISO 11238, 11239など)に準拠した正確なデータ構造を恒久的に維持することが可能になります。
IDMPが対象とするSPORの4つのドメイン(Substances, Products, Organisations, Referentials)は、治験から承認申請、安全性監視に至るまで、医薬品ライフサイクルのあらゆる段階で参照されるため、これらのマスターデータが不整合であれば、申請遅延やコンプライアンス違反のリスクに直結します。特に、MDMは膨大な製品データ収集の複雑さを解消し、規制当局に提出するデータの一貫性を保証する上で不可欠です。実際、MDMを導入している企業は、データ品質の向上において、そうでない企業に比べて約20%高い効果を報告しています。
IDMP対応の成否は、SPORの4つのドメイン(物質・製品・組織・参照データ)を統合し、全社で一貫性を持たせるMDMの導入にかかっています。MDMは、規制遵守だけでなく、データ分析やRWD(リアルワールドデータ)活用の基盤となります。
2. IDMP/SPOR規制の概要と製薬企業への影響
IDMPは、医薬品の識別情報を一意に特定し、グローバルで交換するための5つのISO規格(ISO 11238, 11239, 11240, 11241, 11615)の総称です。この規格は、特に安全性監視活動における医薬品情報の迅速かつ正確な交換を可能にすることを目的としています。欧州では、EMAがSPORサービスとして、RMS(参照データ)、OMS(組織データ)、PMS(製品データ)、SMS(物質データ)の4つのマスターデータシステムを構築し、IDMPの実装を推進しています。
日本の製薬企業においても、国際的な規制調和の動向は無視できません。医薬品規制調和国際会議(ICH)では、ICH E2B(R3)に準拠した個別症例安全性報告(ICSR)の医薬品情報に、IDMPを利用することに合意しています。PMDA(医薬品医療機器総合機構)では、ICSRへの利用に向けて、用量単位などの規格の一部は既に実装済みであり、投与経路や剤形についても導入が検討されています。このため、グローバル申請を行う企業は、遅滞なく社内データをIDMP/SPORの要件に合わせて整備することが必須となります。
- RMS (Referentials Management Service): 統制語彙(Controlled Vocabularies)を管理。
- OMS (Organisations Management Service): 企業、製造所、申請者などの組織情報を管理。
- PMS (Products Management Service): 医薬品製品情報を管理。
- SMS (Substances Management Service): 医薬品の物質情報を管理。
3. MDM構築のための3つの主要ステップとデータガバナンス
IDMP対応に向けたMDM構築は、技術的な側面だけでなく、組織的な変革を伴うプロジェクトです。この構築プロセスは、主に以下の3つのステップで進められます。
経営層による「データガバナンス」のコミットメントが不可欠です。データ所有者(Data Owner)を明確にし、部門横断的なデータ定義と品質基準を策定します。データの完全性、一貫性、正確性を示すデータインテグリティ(DI)の原則(ALCOA+)を遵守するための組織風土とプロセスを確立します。
既存のレガシーシステムに存在するデータ(約70%のデータが不整合を含むという調査結果もある)のインベントリを作成し、IDMP/SPORの要件に合わせてクレンジング(重複排除、欠損値補完、フォーマット変換)を実施します。特に、SPORの統制語彙(Controlled Vocabularies)へのマッピング作業が重要です。
統合されたマスターデータを一元管理するためのMDMプラットフォームを導入し、既存の規制情報管理システム(RIMS)やERPシステムと連携させます。これにより、マスターデータの作成・変更プロセスがMDMを介して行われ、データのライフサイクル全体にわたる品質とトレーサビリティを保証します。
4. IDMP対応における組織的・技術的な主要課題
IDMP/SPOR対応は、その複雑さから多くの製薬企業にとって大きな壁となります。主要な課題は、組織的・技術的な側面にまたがります。
まず、組織的な課題として、部門間のデータ所有権の対立とデータ定義の不統一が挙げられます。例えば、一つの「製品」に関する情報が、研究開発部門、薬事部門、営業部門でそれぞれ異なる定義やコードで管理されているケースは少なくありません。この不統一がMDM導入を遅らせる最大の原因となります。
次に、技術的な課題として、レガシーシステムからのデータ抽出・統合の難易度があります。古いシステム内には、非構造化文書(PDFや紙の記録など)に含まれるデータが多く、これらの情報をIDMPの構造化データ要件に合わせて抽出・変換するには、多大な時間と初期投資コストが必要です。また、日本においては、MPID(医薬品製品識別子)以外のIDMP要件を満たす医薬品コードを整備している国は非常に少ないのが実情であり、新たなコード体系の開発または既存コードの活用法を検討する必要があるという課題も存在します。
- 規制当局への申請データの品質と一貫性が向上する。
- 安全性監視(ICSR)報告の迅速化と正確性が高まる。
- 部門間のデータ連携がスムーズになり、業務効率が約30%改善する。
- レガシーシステムに散在する非構造化データの抽出とクレンジング。
- データガバナンスの未整備による部門間のデータ定義の不統一。
- 初期投資(システム導入・人材育成)のコストが高い。
5. 課題を克服し、データ資産を最大化するための解決策
具体的な解決策としては、以下の実行プランが推奨されます。
- フェーズ1: 組織とガバナンスの整備: CDO(Chief Data Officer)などのデータ責任者を明確にし、データ所有者(Data Owner)を任命します。データ品質指標(DQ metrics)を設定し、データガバナンス会議を定期的に開催します。
- フェーズ2: SPORコアデータの優先処理: SPORの4つのドメインのうち、特にOMS(組織)とRMS(参照データ)のように、比較的変更が少なく、規制上の価値が高いマスターデータから優先的にMDMに統合します。これにより、初期段階で約40%のデータ品質向上効果を目指します。
- フェーズ3: システム統合と自動化: MDMプラットフォームとRIMS、安全性監視システムを連携させ、データ入力・変更時にIDMP/SPORの統制語彙との自動マッピング機能を実装します。非構造化データ抽出にはAI/OCR技術の導入も検討し、手作業によるエラー率を約80%削減することを目指します。
この段階的アプローチにより、初期のコストとリスクを抑えつつ、着実にIDMPコンプライアンスを実現し、最終的には統合されたデータ資産を創薬やリアルワールドデータ(RWD)活用へと展開することが可能になります。
IDMP対応をIT部門のみのプロジェクトと捉えるのは大きな失敗の原因となります。IDMPは業務プロセスとデータ定義の変革であり、薬事、安全性、R&D、ITの全部門が参加する全社横断的なコミットメントが必要です。部門間のデータ共有に対する抵抗感を排除することが成功の鍵です。
まとめ
IDMP/SPOR規制への対応は、製薬企業にとって避けられないグローバルな要請であり、その核心はマスターデータ管理(MDM)の構築にあります。MDMは、SPORの4つのドメイン(物質、製品、組織、参照データ)を一元管理し、全社的なデータ品質と一貫性を保証するための戦略的基盤です。この変革を成功させるためには、経営層の強力なリーダーシップのもと、部門横断的なデータガバナンス体制を確立し、データ所有者を明確にすることが不可欠です。レガシーシステムや国内コード体系の課題は、SPORコアデータから始める段階的アプローチと、MDMプラットフォームによるデータクレンジング・自動化によって克服可能です。IDMP対応を単なる規制遵守で終わらせず、統合された高品質なデータを新たな研究開発やデータ活用の「攻めの経営」へと繋げる機会として捉えることが、今後の製薬企業の競争優位性を決定づけます。
株式会社ヘルツレーベン代表 木下 渉
株式会社ヘルツレーベン 代表取締役/医療・製薬・医療機器領域に特化したDXコンサルタント/
横浜市立大学大学院 ヘルスデータサイエンス研究科 修了。
製薬・医療機器企業向けのデータ利活用支援、提案代行、営業戦略支援を中心に、医療従事者向けのデジタルスキル教育にも取り組む。AI・データ活用の専門家として、企業研修、プロジェクトPMO、生成AI導入支援など幅広く活動中。

