製薬業界のデータガバナンスとは?経営層が知るべき「製薬DX」と資産化ロードマップ
製薬業界のデータガバナンス:経営層のための製薬DXと資産化ロードマップ
今日の製薬業界は、単なる医薬品の製造・販売を超え、デジタル技術を駆使した「製薬DX」の波に直面しています。この変革の核心にあるのが、データを「負債」から「戦略的な資産」へと転換するためのデータガバナンスの確立です。規制当局によるデータインテグリティ(DI)への監視強化や、リアルワールドデータ(RWD)、AI創薬といった新たなテクノロジーの登場により、従来の「守り」のガバナンスだけでは競争優位性を保てなくなりました。
本記事は、製薬企業の経営層の皆様が、データガバナンスを単なるコストセンターではなく、持続的な成長とイノベーションを生み出すための「攻めの経営基盤」として捉え直し、データ資産化を成功させるための具体的なロードマップとアクションプランを提示します。
1. 規制強化とDX時代のデータガバナンスの必要性
製薬業界は、患者の生命に関わる製品を取り扱うため、他の産業と比較して極めて厳格な規制(GxP:Good Practice群)の下にあります。特に近年、海外規制当局(FDAやEMA)の査察において、データの信頼性、すなわちデータインテグリティ(DI)に関する不適合が多発したことを背景に、世界的にデータ管理への監視が強化されています。例えば、2013年〜2015年にかけては、医薬品の製造・品質保持試験データ改ざん事件が頻発し、規制当局からDI不適合の指摘が多数ありました。
同時に、創薬研究から臨床開発、製造販売後に至るバリューチェーン全体で、リアルワールドデータ(RWD)、AI、IoTなどのデジタル技術を活用する「製薬DX」が不可欠となっています。これらの新しいデジタル技術は、創薬期間の短縮や個別化医療の実現に貢献しますが、その膨大なデータ量を適切に管理し、信頼性を保証できなければ、規制当局の承認を得ることはできません。データガバナンスは、この「規制遵守」と「イノベーション推進」という二律背背反する課題を両立させるための、唯一のフレームワークなのです。
- 規制遵守: GxP(GLP, GCP, GMP, GVP)に基づくデータの完全性、正確性の保証
- DX推進: RWD、AI、ビッグデータといった多様なデータを横断的に活用するための基盤整備
- リスク管理: データ漏洩や改ざんによる企業信頼性の失墜、年間数億円規模の規制対応コスト増大の回避
2. 製薬業界におけるデータガバナンスの定義と「製薬DX」の核心
「攻めのデータガバナンス」とは、将来の拡張性を想定し、RWDやAI解析など新たなデジタル技術を駆使した積極果敢なデータ活用に耐えうる、柔軟性と拡張性を持った統制ルールと体制を指します。 これにより、データ保有後の管理を担保し、コンプライアンス違反を防ぐ「守り」の側面だけでなく、治験データ、Omicsデータ、実臨床データをクロス解析することで、新たな価値創出や意思決定の質とスピードの加速度的な向上を実現する「攻め」の側面が強化されます。
製薬DXを成功させるには、従来のGxP規制に基づく「データインテグリティの確保(守り)」と、AI・RWD活用による「イノベーションの加速(攻め)」を統合した、全社横断的なガバナンス体制が不可欠です。経営層は、この二面性を理解し、投資のバランスを取る必要があります。
3. データ資産化ロードマップ ステップ1: データ品質と標準化の確立
データ資産化の第一歩は、すべてのデータが信頼できる状態にある、すなわちデータインテグリティ(DI)を確立することです。DIが確保されていなければ、AIにどれだけ高度な分析をさせても、その結果は信頼できず、承認申請にも使用できません。DIを担保するための国際的な基本原則が、米国FDAが提示する「ALCOA原則」と、欧州EMAがさらに求める「CCEA原則」です。
特に、治験データ(GCP領域)では、医療機関で生成される記録が対象となるため、製造現場(GMP領域)と同程度の統制を効かせることが難しく、リスク評価と対応を手順化し、社外ステークホルダー(CRO、医療機関)と認識を共有するガバナンスが極めて重要になります。 データのライフサイクル全体を通じて、誰が(Attributable)、いつ(Contemporaneous)、どのようにデータを生み出したかというメタデータを含めた管理体制を構築しなければなりません。
ALCOA原則(Attributable: 帰属性、Legible: 判読性、Contemporaneous: 同時性、Original: 原本性、Accurate: 正確性)の遵守は、製薬業界のデータガバナンスにおける品質保証の根幹です。全従業員に対して、これらの原則に基づくデータ記録・管理の徹底を義務付ける必要があります。
4. データ資産化ロードマップ ステップ2: セキュリティとコンプライアンスの徹底
データが「資産」であるためには、その安全性が確保されていることが大前提です。製薬業界が取り扱うデータには、機密性の高い研究開発データ、治験データ、そして個人情報を含む患者データ(RWD)が含まれます。特に、RWDの利用拡大に伴い、EUのGDPR(一般データ保護規則)や日本の個人情報保護法といったデータプライバシー規制への対応が必須となります。
このステップでは、全社的なセキュリティ体制と、データ管理のルール・責任体制を明確化します。具体的には、アクセス権限の厳格化、データの暗号化、サイバーセキュリティ対策の強化(EDRの導入など)が必要です。また、データの所有権や管理責任を明確にする「データオーナーシップ」の確立が不可欠です。データオーナーとデータユーザーの役割を明確に定義することで、データの適切な利用と、万が一の際の責任の所在を明確にし、安心してデータを使える環境を整備します。
GCP(臨床試験)領域では、データ生成元が外部の医療機関となるため、治験依頼者(製薬企業)側からGMP領域と同程度のガバナンス統制をかけることが困難です。このため、契約やSOP(標準作業手順書)を通じて、外部ステークホルダーのDI対応状況を評価・監視する体制を構築することが、最も重要な注意点となります。
5. データ資産化ロードマップ ステップ3: データの戦略的活用と価値創出
ガバナンス基盤が整った上で、初めてデータは真の「資産」として機能します。この最終ステップでは、データ駆動型のイノベーションを実現するための戦略的な活用を推進します。製薬DXの具体的な活用例は、創薬から販売までのバリューチェーン全体にわたります。
例えば、第一三共では、全社データ基盤(IDAP)を整備し、バリューチェーン全体にわたる高品質なデータの創出・活用を推進しています。具体的には、医薬品の効用を高める成分の配合最適化、臨床現場で注目されている副作用の可視化、そして新薬申請に必要な膨大な文書作成への生成AIの活用などです。 また、リアルワールドデータ(RWD)を活用することで、適応症の拡大や新たなエビデンスの創出も可能になります。これにより、従来の創薬プロセス全体の期間を、データとAIの活用によって大幅に短縮し、患者への新薬提供を加速させることを目指します。
- AI創薬: 大容量データを分析し、新しい化合物の創出や研究プロセスの加速
- デジタルセラピューティクス(DTx): 治療用アプリなど、データ連携による新たな治療ソリューションの開発
- サプライチェーンの最適化: 製造品質データ管理システムとデータ共有・分析基盤の構築による、迅速で正確な需給生産情報の管理
6. 経営層が取るべき具体的なアクションプランと注意点
データガバナンスはIT部門や特定の委員会だけの責任ではなく、経営戦略そのものです。経営層は以下の具体的なアクションを通じて、全社的なデータ駆動型文化を醸成する必要があります。
| 項目 | アクションプラン | 期待される効果 |
|---|---|---|
| 組織・体制 | CDO(Chief Data Officer)またはDX推進担当執行役員の任命と、社長直下のDX推進組織の設立。 | 全社横断的なデータ戦略の迅速な意思決定と実行。 |
| 人材育成 | 全従業員を対象としたITリテラシー・DI教育の義務化。ノーコード・ローコードによる現場主体の業務改善推進。 | データ活用文化の醸成。ある企業では2030年までに全社員の約80%をDX人材とする目標を掲げています。 |
| 技術基盤 | 分散した基幹システム(会計・人事・販売・生産)の統合と、全社データ基盤の一元化。 | データ管理の効率化と、経営の意思決定に直結するデータのリアルタイム活用。 |
データガバナンス構築の最大の障壁は、長年のGxP規制下で職務を果たしてきた現場スタッフの「規制が明確でない領域の行為」に対する強い警戒感と抵抗です。経営層は、規制遵守を担保した上で、データ活用がもたらす未来のベネフィットを具体的に示し、部門間の連携を促すことで、この組織的な壁を打破しなければなりません。
まとめ
製薬業界におけるデータガバナンスは、規制遵守のための「守り」の機能と、製薬DXを加速させる「攻め」の機能の統合です。経営層は、データインテグリティ(ALCOA原則)の徹底によるデータ品質の確保から、GDPRなどのプライバシー規制への対応、そして全社データ基盤の整備を通じたAI創薬やRWD活用といった戦略的活用までを一貫したロードマップとして捉える必要があります。CDOを中心とした明確な組織体制と、全社員のDX人材化を目標とする育成プログラムへの投資が、データ資産化を成功させ、イノベーションと持続的成長を実現するための鍵となります。
株式会社ヘルツレーベン代表 木下 渉
株式会社ヘルツレーベン 代表取締役/医療・製薬・医療機器領域に特化したDXコンサルタント/
横浜市立大学大学院 ヘルスデータサイエンス研究科 修了。
製薬・医療機器企業向けのデータ利活用支援、提案代行、営業戦略支援を中心に、医療従事者向けのデジタルスキル教育にも取り組む。AI・データ活用の専門家として、企業研修、プロジェクトPMO、生成AI導入支援など幅広く活動中。

